珈琲の香るシャツとカカオの雫 [1:1]R18

 【登場人物】

■佐伯 ユリ(さえき ゆり)♀:32歳。橘が勤務する印刷会社へ新入社員としてやってくる。はじめての就職で庶務課へ配属。美術科を卒業しているがすぐに結婚。しかし、夫の翔太とは死別。「すみません」が口癖。少し天然。「愛を失った女」

■橘 一真(たちばな かずま)♂:35歳。印刷会社勤務。企画部・デザイン制作課室長。やり手。親に愛情を受けずに育つ。複数の女性と関係を持っていたが、佐伯ユリに興味を持つ。「愛をしらない男」

※約40分
※成人向けシーンがあります。
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ユリ:今日からここが職場……。

(深呼吸)

このたび、入社いたしました「佐伯ユリ」と申します。
初めての出社で緊張しておりますが、一日でも早く皆様のお役に立てるよう、精一杯頑張ります。入社したばかりで失礼もあるかと存じますが、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

……あの

(電話があちらこちらで鳴っていて、みな忙しそうに働いている)

一真:やあ、はじめまして。新人さん?
いま繫忙期なんだ。みんな殺気立ってるだろう。気にしないで。
どこの部署?案内するよ。

ユリ:は、はい。すみません。「庶務課」です。

一真:庶務課ね。課長、仕事しなくて金子さんひとりで大変そうだったからな。
あ、俺は、企画部・デザイン制作課の「橘 一真」よろしく。
君、すごく緊張してるね。
大企業なら配属されたところだけ挨拶すればいいけど、ウチは少人数でやってる会社だから、全部の部署に顔を出しておくのは大事なんだ。
そうやって、交流して、仕事をスムーズにー

……あれ、手、震えてる?

ユリ:え?やだ……(手を抑える)
ここ、企画部だったんですね。

一真:いや、ここは営業部。
俺は、ちょっと打ち合わせにきてたけど、終わって戻るところ。

ユリ:「デザイナー」さん。すごい、です。

一真:ハハハ。別にすごくないよ。
ちょっと勉強すれば、「さえき」さんだっけ?君にもできると思うよ。

ユリ:そんな……。私には、そんなセンスないので。

一真:せっかく就職したのに「なんでもやります!」くらいの気持ちでいないと、もったいないよ?実際働いていく中で、いろんな経験と専門的な知識が身につく。
ペーパーレス化が進んでるけど、紙の存在意義を改めて見直す動きも出てきてるからね。

ユリ:はい……。

一真:俺、少し時間あるから、社内を案内しようか?

ユリ:いえ!そんな!人事の方にお願いしてー。

一真:人事ね。じゃ、お局の神山さんに目をつけられないように。

ユリ:え?

一真:気に入られればいいけど、嫌われるといじめられて、辞めてく子もいたな。
若い男が好きで、かわいくて、人気のある、気の弱そうな女性が標的になりやすい。
佐伯さんはかわいいからなぁ。目をつけられそうだ。

ユリ:そんなことないです!かわいくないですし、私、もう30過ぎてますし……。

一真:お、じゃ、同年代かな。結婚は?

(ユリの左手をとる)

ユリ:あ!

一真:してるのか。残念だなぁ。

ユリ:あ、あの!

一真:ん?

ユリ:手を、離して……いただけませんか。

一真:旦那の給料だけではやっていけないのかな?フルタイムで入社なんでしょ?

ユリ:そうですけど……。なんといいますか……、その……。

一真:まぁ別にいいんだけど。お子さんは?

ユリ:いません。

一真:ふ~ん。

ユリ:あの!手を、離してください……

一真:あ、ああ。ごめんごめん。
手が震えてるみたいだし、きれいな手だったから、つい。

ユリ:しゅ、主婦の手です。

一真:ま、一通り案内してもらって。製造部なんか面白いと思うよ。
実際、印刷してるところみられるからね。

ユリ:はい。

一真:俺のところにも必ず来てよ。珈琲をご馳走するよ。

ユリ:珈琲……

一真:苦手?

ユリ:いえ、大好きです。最近、飲めてないなぁって。

一真:そうなの?なんで?

ユリ:ええと……、なんといいますか……

一真:必ずおいで。
とびきり美味しい珈琲を淹れてあげるから。
じゃあ、またあとで。

ユリ:あ、ありがとうございました。

ユリ(M):またあとでって……。「橘 一真」さん。
優しいけど、女性の扱いに慣れてる感じ……。モテるんだろうな。
久しぶりに手を握られた……。
って、やだ。私、何考えてるの。人事に行かなくちゃ!

【間】

ユリ(M):営業、管理、印刷、システム、梱包・配送スタッフ……。
ここで最後。「企画部」

お仕事中失礼いたします。
このたび、入社いたしました佐伯ユリと申します。

一真:やぁ、来たね。ようこそ。企画部へ。

ユリ:あ、橘さん。先ほどはありがとうございました。

一真:神山さん、大丈夫だった?

ユリ:……はい、なんとか。

一真:何かしら、嫌みのひとつも言わないと気が済まないおばさんだからな。
とりあえず、「神山の洗礼」は、みんな受ける。
何か言われたと思うけど、真に受けることないよ。

ユリ:はい……

一真:中に入って。珈琲を淹れてあげるから。ここ、座ってて。

ユリ:いえ!そんな。どうかお構いなく。

一真:いいから。ほら、座って。

ユリ:はい、失礼します。(室内を見まわして)あの……

一真:ん?

ユリ:他の社員の方は……、室長さんはどなたですか?ご挨拶を。

一真:ああ、他の部署に行ってたり、外に休憩しに行ってたりで、いまちょうど俺だけ。
俺を含めて、5人でやってるよ。ちなみに、俺が室長。

ユリ:そうなんですね!図々しく座ってしまって……!
よろしくお願いします!

一真:ハハハ。たいしたことないよ。
いいから座って。珈琲をいれるところだし。

ユリ:……あ、いい香り。

一真:豆から挽いてるんだ。ちょっとこだわっててね。必ず俺が淹れる。

ユリ:この瞬間の香りが一番好きなんです。

一真:俺も。豆を挽いて、珈琲を淹れてる時がホッとする時間。
で、みんながそれを飲んで、ホッとするのを見るのがうれしい。

ユリ:不思議ですよね。他の人に淹れてもらったほうが美味しく感じるんですもの。

一真:人は嬉しいと感じるときに脳内ドーパミンの分泌が盛んになる。
人にしてもらって嬉しくて分泌されているドーパミンを、珈琲の美味しさで分泌されているように錯覚する。
だから、「人に淹れてもらう珈琲は美味しい」と感じるんだってさ。

ユリ:人にしてもらってうれしい……。

一真:デザインもそうだよ。
1mm単位で調整が必要だったり、一からやり直したりすることなんてしょっちゅうだ。
それでも、完成してクライアントが喜んでくれたら、それまでの苦労も飛んでいく。
ちなみに、いま取り掛かってるのは、これ。

ユリ:え、見てもいいんですか?

一真:いいよ。でも、口外しないでね。

ユリ:はい。

一真:できたら感想をいただけるとうれしい。

ユリ:わぁ……。
このメーカーの化粧品ポスター、こちらで制作されてたんですね!
新商品が出るんだ……。素敵。

一真:どこらへんが?

ユリ:えっと……。
おそらく、ですが、主婦向けの商品ですよね。
高級感のある赤や茶系で、事細かに文字で説明しないで、ビジュアルで伝えてて……
画像や文字の大きな部分と小さな部分の比率のバランスがいいですし、
フォントも見やすくて……

このアクセントカラー、効いてると思います。
これなら、1メートル離れてもわかりやすくて、目につきやすい。
あと、このキャッチコピーが、まるで自分のことだと思わせるようなー

一真:すごいな。

ユリ:あ!すみません!私ったらペラペラと……!

一真:いや、いいよ。
なんだ、デザインのことわかるんだ。へぇ。

ユリ:美術科にいってました。仕事にはつかなかったんです。
卒業してすぐ結婚して、主婦になったので……

一真:もったいないなぁ。いまどき珍しいんじゃない?
働きたいと思わなかったの?

ユリ:えっと、すみません……

一真:謝ることないよ。
(ユリの後ろから珈琲を置く)はい、珈琲どうぞ。

ユリ:ひゃっ!

一真:ん?

ユリ:ご、ごめんなさい!変な声出して!
い、いただきます!

一真:淹れたてだから気を付けて。
ゆっくり、香りやコクとか味わってほしいな。
そんなにビクビクしてちゃ……。

ああ……、俺が耳元で喋ったからか。

ユリ:っ!

一真:可愛いな。

ユリ:か、可愛くなんか、ない、です……!

一真:珈琲、どうかな。

ユリ:あ……、いただきます……。

(飲む)

わ……、すごく美味しいです。深いコクがあって、上品で、ほろ苦さと酸味は少くて……
苦味は強いですけど、シナモンのような風味。

一真:君は、敏感なんだね。舌も。

ユリ:え……

一真:気に入ったよ。これはね、「マンデリン」だ。
「スーパーグレード」と呼ばれているマンデリン。
産地と栽培されている標高の条件を満たすものだけが「スーパーグレード」として認められるから、希少性が高くなる。
珈琲愛好家から高い評価を受けている等級のマンデリンなんだ。
俺は家でもこれを飲んでる。

ユリ:そんな高級なものを……(飲む)美味しい……。
あ、これ、マドレーヌとか、あんことも合いそう。

一真:そう、それが「ペアリング」だ。
珈琲もスイーツの味もわかるのに美味しい。
そうだな、日本酒と刺身のようにそれぞれが相性良く引き立つのがいいんだ。

ユリ:疲れているときに、「ペアリング」が手軽にできたら美味しい幸せ、ですね。

一真:人も「ペアリング」が大事だと思わない?

ユリ:え……?ええ。

一真:君は-(ユリの後ろから机に両手をつき、香りをかぐ)とても甘い香りがする。

ユリ:!!

一真:俺はどんな香りがする?

ユリ:あ、あの……

一真:言うまで、この手は離さないよ。

ユリ:珈琲の、珈琲の香りがします!!

一真:そう。いいペアリングだ。

ユリ:い、言いましたから、離れてください。
他の社員の方に見られたら……!!

一真:誤解される?

ユリ:私は、主婦です。おばさんです!
安いインスタント珈琲しか飲めない、節約おばさんです!

一真:自分で「おばさん」なんて言うのはよくないなぁ。
身も心も本当のおばさんになっちゃうよ?

ユリ:と、とにかく……!!

一真:おっと。急に立ち上がらないでよ。

ユリ:ごちそうさまでした。失礼します!!

(小走りに去っていく)

一真:耳まで真っ赤にして……
男慣れしてないのか、年齢の割にピュアというか……。希少価値がある。

(携帯にメッセージが入る)

ん?メッセージ……。愛子……と、サヤカ。
(ちょっと考えて)
「もう終わりにしよう」送信、ブロック、と。

……「佐伯ユリ」か。

うん、今日はまた一段と珈琲が美味い。

【間】

(ユリ、新入社員歓迎会後)

ユリ(M):はぁ。歓迎会終わった……。
課長ったら、すごい酒豪。
明日休みだからって、私にも「飲め、飲め」って……。
「アルハラ」も「セクハラ」もある会社だなんて。
私、来るとこ間違えたかな……。

でも、橘さんのポスターと珈琲はよかったなぁ。
あのメーカーの化粧品好きだけど、高くて買えない……。
いや、うん、私は、ドラッグストアの化粧品で十分。
安い化粧品が悪いわけじゃないし。

それにしても、お酒がきいたのかな。
体が重いし、熱い。すごく眠い。

私、この仕事続けられるのかな……。
ううん、12件目でやっと採用してもらったんだから、頑張らなくちゃ。

ん?あ!終バス!
すみません!ちょっと待って!乗ります!
待ってください!!

あ~、嘘、行っちゃった。どうしよう……。

(バス停のベンチに座り込むユリ)
(そこに車で通りかかる一真)

一真:ん?あれはー

佐伯さん!

ユリ:え?あ、橘さん。
こんな時間まで残業ですか?

一真:まぁね。明日納品のものだから仕上げてきたよ。やっと帰れる。
佐伯さんは、歓迎会の後かな。

ユリ:はい……

一真:で、終バスを逃したと。

ユリ:はい……

一真:タクシーは?

ユリ:高いので……

一真:じゃあ、どうやって帰るの?

ユリ:歩いて、です。

一真:歩いて帰れる距離?しかも、こんな夜中に女ひとりで?

ユリ:仕方ないです。

一真:旦那さんは迎えに来てくれないの?

ユリ:はい。あっ!いえ、あのウチ、車持ってなくてー

一真:もう0時(12時)過ぎたぜ?
奥さんが帰ってこないの、ほっといたままなんだ。
もしかして、夫婦仲、良くないの?

ユリ:そんな事!……ないです。(フラつく)あ…っ!

一真:だいぶ足元にきてるな。送ってあげるから乗りなよ。

ユリ:いえ!そんな結構です!
お疲れでしょうから、どうぞ私の事は気にせずお帰りください。

一真:そんなにフラフラで、こんな夜中に、女性のひとり歩き。
何が起こるかわからない。妙な意地張ってないで、素直に乗りなよ。
ちゃんと送ってあげるからさ。

ユリ:主人やご近所の方に見られたら。

一真:あー、もうめんどくせぇ!

(車から降りてくる)

ユリ:な、なんですか?

一真:騒がないでくれよ。それこそ不審者と思われちまう。よっ!

(ユリを抱き上げる)

ユリ:キャッ!

一真:軽いなぁ。ちゃんと飯食ってる?変なことはしないから、ほら。

(後部座席に乗せる)

一真:どこ?住所?

ユリ:……

一真:言わないと、いまここで襲うぞ?

ユリ:わかりました!言います!よろしくお願いします!

【間】

(ユリの住むアパート前に到着)

一真:ここ?

ユリ:ここから先は自分で歩けます。
ご迷惑をおかけして大変申し訳ございませんでした。

(おじぎと同時に前にふらつく)

ユリ:わっ!

一真:見てられないなぁ。
玄関の前まででいいから連れていくって。
それか、旦那さんに連絡して出てきてもらいなよ。

ユリ:もう寝てると思うので……

一真:何号室?

ユリ:……

一真:(さっきより少し強めに)何号室?

ユリ:201号室です……。

一真:エレベーターがないよね?

ユリ:はい。
あの、手すりをつかんで階段のぼるので大丈夫だと思い―

一真:はいはいっ、と。

ユリ:キャッ!

(一真、ユリを抱き上げて、階段をのぼりだす)

一真:しー。
この感じのアパートだと、周りの部屋にもすぐに聞こえちゃうだろ。

ユリ:……はい

一真:ほら、201号室だよ。
明かりがついてないね。旦那さん寝てるの?

ユリ:だと思います。

一真:連絡した?

ユリ:は、い……

一真:……本当は違うんだろ?ひとりで住んでいるんだろ?
家の中に入るまで見届けるから、鍵開けて。

(ユリをおろす。ふらつきながらもドアの鍵を開ける)

ユリ:……送ってくださってありがとうございました。
本当にご迷惑をおかけしました。それでは……

一真:あぁ。おやすみ。

ユリ:はい、おやすみなさい。

(ドアを閉めるが、中で倒れる音がする)

一真:どうした?!

(返事がないので、ドアを開ける)

一真:おい、開けるぞ!

(玄関で倒れているユリ)

おい、大丈夫か!

(額に手を当てる一真)

一真:熱がある……。よっと。

(抱き上げ、ベッドへ寝かせる)

一真:畳の部屋……。1DKか。
こんな隙間風が入るボロアパートにひとり暮らしで……。

【間】

(朝、目覚めるユリ)

ユリ:ん……、珈琲の香り……

あれ?おでこにタオル?いたたた……。ぶつけた??
私、どうしたんだっけ……

え?え?下着のまま?!

一真:おはよう。気分はどうだい?

(一真が、畳の上で横になっている)

ユリ:橘さん?!どうして……

一真:覚えてないの?

ユリ:え、まさか……

一真:甘い夜だったね。君があんなに大胆だったとは。

ユリ:う、噓……

一真:……ぷ(笑う)
嘘だよ。何もしてない。ホントだ。

ユリ:でも、し、下着姿……!

一真:酔いつぶれたのかと思ったけど、熱が出て、倒れたんだよ。
相当緊張していたんだね。出社一日目でダウン。

ユリ:あ……、歓迎会があって、それから……終バスを逃して……
思い出してきました……

でも、私、こ、この格好は?!

一真:さすがに、スーツ姿のままじゃね。皺が寄っちゃうだろ?
きっとあれが一張羅なんだろうから。
汗もかいていたし、そこは目をつぶりながら―

ユリ:み、見ました?!

一真:明かりは消しておいたから、そんなには見えなかったよ?

ユリ:うう……

一真:また耳まで真っ赤になった。可愛いな。
でも、元気になったみたいでよかったよ。

ユリ:お隣で寝ててくださったんですか……

一真:鍵かけて帰ったら、今度は君が困るだろう?
たまには、畳の上で寝るのも気持ちいいね。
んん~(伸び)
はぁ、今日が休みでよかったよ。

ユリ:本当に、すみませんでした……

一真:君は「すみませんでした」が多いな。……で?

ユリ:で?

一真:君の旦那さんはどこにいるのかな?

ユリ:翔太さんー、夫はもういません。亡くなりました。

一真:いつ?

ユリ:五年前です。車の交通事故で……。
交差点で右折しようとしたら、バイクがかなりのスピードで走ってきて、
慌ててよけようとして、電柱にぶつかって……

一真:そうか……。

(思い出して酷く落ち込むユリ)

ユリ:私も同乗していました。
でも、電柱にまともにぶつかったのは彼の方で……
私もしばらくは意識不明の重体で、なんとか一命をとりとめたのはいいのですが、
目が覚めたら彼が死んだと聞かされて……。
なんで私は生きてるんだろうって。
しばらくは何もする気がなくて……

一真:うん。

ユリ:半年リハビリ頑張って、やっと退院できたんですが、
夫の死亡による事務作業が山ほどあって、悲しんでいる暇がなくて……
でも、頼れる人もいなくて……

一真:親御さんは?

ユリ:……私たち駆け落ちしたんです。勘当されました。
彼の家は裕福で、跡取り息子でした。
彼のご両親に、私がそそのかした、となじられて。
あきらめようと思ったんですけど、彼がこんな私を愛してくれて……
でも、駆け落ちだなんて、本当に若気の至りですよね。

一真:君のご両親は?

ユリ:父が許してくれなくて……。
仕方ないです。
母も、父に私と連絡とることを禁じられているみたいです。
でも時々、仕送りとメッセージをくれて……
こんな……、こんなことになるなら……

私のせいで、彼は亡くなったようなものです。
私がちゃんと身の程をわきまえてー

(一真、ユリを抱きしめる)

……!!

一真:違うよ。

ユリ:う……

一真:自分を責めるなよ。「こんな私」じゃない。
君は素敵な女性だ。
旦那さんが君を好きになった理由がわかる。
君と結婚できて幸せだったはずだ。
事故だ。
事故だったんだよ。
君のせいじゃない。

ユリ:たち、ばな……さん……

一真:俺はさ、最近仕事がつまんなくってね。ただ、惰性でやってた。
でも、今日の企画室での君との会話。
君のポスターや、珈琲への感想を聞いていたら、
俺の中で、また芽が出そうな気がした。

(ユリの耳にキス)

ユリ:ひゃっ!

一真:本当は抱きたいところだけど、今日はやめとくよ。

ユリ:か、彼女さん、いらっしゃるんでしょう?

一真:彼女……。今日、いや昨日か別れたよ。
というより、彼女ではなかったな。

ユリ:え……

一真:身体だけの関係だったんだ。俺は心から人を愛したことがない。
愛なんて知らない。

ユリ:でも、お相手の女性の方はそうは思ってなんか―

一真:割り切った関係だったんだ。君にはわからないだろう。
俺は、佐伯さんのような恋愛はしたことがない。
両親はいるけど、俺は三男で、兄貴が一番目をかけられていた。
そして待望の女子、妹が産まれたら、今度は妹に愛情を注いでた。
俺は、愛されないで育ったんだ。
何をやっても怒られもしないし、褒められもしない。
忘れ去られた存在なんだ。

ユリ:そんな……、そんなことないはずです!

一真:そうなんだよ。そういう家庭もあるんだ。別に恨んじゃいない。

ユリ:橘さん……

一真:なんだか喋りすぎたな。
君は、泣いて少しすっきりしたかい?

ユリ:すみませ……、あ、また。

一真:その口癖はなおさないとな。
いっとくけど、この借りは返してもらうよ?

さて、帰るとするか。
俺の連絡先、メモでおいとくから連絡して。
玄関、ちゃんと鍵かけるんだよ。
じゃ、またね。

ユリ:あ、はい。本当にありがとうございました。

(一真、帰る)

ユリ:……橘さん。珈琲の香りの人……

【間】

(帰りの車の中で)

一真:……くそ。なんだ、この気持ちは。

ユリ(M):お返し……。何したらいいんだろう。
珈琲……、ペアリング……

【間】

(休み明けの出勤日)

ユリ:(電話対応)
「はい、はい、その件につきましては、担当者と相談しまして、折り返しご連絡させていただきます。それでは失礼いたします」

えっと、これは「管理部」の三宅さんに確認……と。

(金子「管理部行くなら、これも持って行って」)

あ、はい。この書類ですね。持っていきます。

ユリ(M):忙しい。研修なんてほとんどない。すぐ実践。
ほんとに、課長はほとんど動かないし……

ユリ:失礼します。庶務の佐伯です。三宅さんいらっしゃいますか?
あの、お客様からなんですが―

(「庶務の人?ちょうどよかった。備品が足りないんだ。持ってきてくれる?」)

あ、はい。備品ですね。わかりました。
必要なものを、メモに書いてくださいますか?

ユリ(M):ふぅ……。あっという間に昼休み。
これ慣れるのかな。もうくたくた……。
主婦からいきなりフルタイムって、やっぱりキツい。

……営業部のエース、女性だった。「富永さん」だったかな。
あんなにバリバリ働いてて、お子さんもいるってすごいなぁ。
私なんか、自分のことだけで精いっぱいなのに……。

(金子「佐伯さん、外に食べに行かない?」)

ユリ:あ、ありがとうございます。
お昼は、お弁当持ってきているので、今日は……。はい。
あの、また声かけてください。

(小声で)できれば、給料日の後に……。

はぁ~……

一真:なんだ?ため息なんかついて。

ユリ:橘さん!

一真:体調はどう?

ユリ:あ、ありがとうございます。もう大丈夫です。
何か、庶務に用事でも?

一真:いや、君に会いに来たんだよ。

ユリ:え……

一真:言っただろ?借りは返してもらうよって。

ユリ:あ、それでしたら、今日持ってきてます。

一真:ん?

ユリ:えっと、これです。
よかったら、珈琲タイムにみなさんで食べてください。

一真:これは、チョコ?

ユリ:「Mandorle(マンドルレ)」の「木の実のチョコクッキー」です。
このチョコレートは、苦みや甘みは強すぎずで、
表面のカカオ豆のカリカリ食感は、食べ応えがありますよ。
あと、生キャラメルが入っているので、しっとりした食感です。

一真:君は、食レポもできるんだな。なに、チョコ好きなの?

ユリ:はい。大好きです。
これは高いので、たまに、自分へのご褒美に買うくらいですけど。

企画部は、5人とおっしゃってましたよね。
これ6枚入りなので、もう1枚は橘さんが食べてくださいね。

一真:え、これで、返したつもり?

ユリ:あ、チョコレート苦手でしたか?

一真:いや、好きだけど……。

ユリ:……?

一真:そこは鈍いんだな。1枚残しておくから、3時(15時)になったらおいで。
一緒に珈琲を飲もう。

ユリ:……え、いいんですか。

一真:なけなしの金をはたいたんだろ?

ユリ:……そんな

一真:ん?

ユリ:そんな言い方しなくても……

一真:あれ、拗ねちゃった?

ユリ:違いますっ

一真:わかりやすいな。

ユリ:人に何かもらったらなんていうか教わらなかったんですか……

一真:なるほど?これは失礼。

(耳元で)ありがとう。喜んでいただくよ。

ユリ:そ、それ、やめてくださいっ!

一真:君の反応は可愛くて、楽しい。
珈琲飲みにくるんだよ。いいね。

(部署に戻っていく一真)

ユリ:い、忙しいので!

……もう!聞いてない!!

【間】

ユリ(M):うわ~。休憩なんかとれないよ~。次々やることがある。

(ユリの携帯がなる)

ユリ:……え?私のスマホ?誰だろう。
ちょっと失礼します。すぐに戻ります。

も、もしもし?

一真:やあ、ユリちゃん。珈琲タイムだよ。

ユリ:(小声で)橘さん、いつの間に!

一真:君をアパートに運んであげた日。
メモおいといたのに、全然連絡くれないじゃん。

ユリ:勝手に、人の携帯いじったんですか?

一真:一応、声はかけたよ。君は寝てたけど。

ユリ:信じられない……
あ、あの、すごく忙しいので、伺えませんから。

一真:あ~、備品もってきてくれる?急ぎなんだ。
あれがないと、仕事ができないんだよねぇ。

ユリ:むぅ……。そういうことなら、庶務の方にかけてきてください。

一真:いいの?あの日の夜のこと、みんなに言っても?

ユリ:何もなかったって言ったじゃないですか!

一真:君のアパートに入って、下着姿を見たのは確かだ。
それだけで、じゅうぶんだと思うけど?
みんな妄想や噂話は大好きだからねぇ。

ユリ:ひどい……

一真:どう受け取ってもらってもかまわないよ、俺は。
そういう男だからね。どうする?

ユリ:うう~、わかりました。行きます。

一真:OK。じゃ、いまから豆を挽くから、香りが飛んでいく前に来てね。

ユリ:勝手すぎます!

あ、切れた……。
もうっ、振り回されてる!

【間】

(企画部)

ユリ:失礼します。庶務の佐伯です。備品をお持ちしました。

一真:やぁ待ってたよ。ちょうどいま珈琲を淹れるところだ。
あのチョコはみんなに配っておいたよ。喜んでた。
外で休憩するように言っといたから。

ユリ:外?

一真:二人で食べたかったからね。
はい、これは、ユリちゃんの分。一緒に食べよう。

ユリ:「ちゃん」付けはやめてください……。

一真:じゃあ「ユリ」?

ユリ:じゃなくて!会社ですから!

一真:会社じゃなければいいんだね。

ユリ:ああ言えばこう言う~~~

一真:いままでの女たちより、君の反応が楽しくて仕方がない。

ユリ:私は、軟派な方は好みではありません。

一真:俺は「コーヒー豆」。君は「カカオ豆」だ。

ユリ:なんですか、それ。

一真:どちらも発展途上国の地域が中心。どこでも育つ植物ではない。
栽培には土、雨、日当たり、温度といった様々な条件が必要だ。
豆の加工方法、焙煎の度合い、産地の違いによって味に違いがでてくる。
そして、どちらにもポリフェノールとカフェインが入っている。

ユリ:おっしゃっている意味がわかりません。

一真:そして、コーヒーとチョコレートの効果は、大きく分けて3つの効果がある。

一つ「覚醒作用」
ニつ「アンチエイジング」
三つ「脂肪燃焼作用」

はい。珈琲どうぞ。

ユリ:あ……(無意識にほほ笑んでいる)

一真:そして、僕らは、お互いが喜ぶ姿をみてうれしく思っている。

笑顔はアンチエイジングにつながる。
笑いは脂肪を燃焼する。
僕らの出会いは、覚醒作用がある。

ユリ:はぁ、美味しい。

一真:で、聞いてない……

ユリ:ん~~、やっぱりこの店のチョコクッキー美味しい♪ 最高に合いますね。

一真:そう、まさに、ペアリングだ。
俺の珈琲を飲んで、それにピッタリ合うものを持ってきたのは君がはじめてだ。
君には才能がある。

ユリ:そんな、チョコだけで大袈裟です。

一真:営業部のエース、富永みたいになりたくないかい?

ユリ:富永さん、かっこいいです。憧れちゃいます。スーパーウーマンです。
でも、私は無理です。スーパーに通うただのウーマンです。

一真:え?……ぷっ!そんなジョークも言うんだ。

ユリ:つ、つい……

一真:おちゃめさんなんだねぇ。ますます気に入ったよ。
俺にも変になびかない。振り向かせたくなるね。

ユリ:橘さん、そういうこと、いろんな女の人に言ってるんでしょう。
私はだまされませんよ。

一真:ま、俺はモテるからね。
君みたいな純粋な子は、どっぷりハマりやすいのも知ってる。

ユリ:ばかにしないでください。

一真:してない。「好み」だって言ってるんだ。

ユリ:よくそういうことを、軽く言えますね。

一真:軽く言ってないんだけどなぁ。

ユリ:軽いですよ。うちの主人はもっとー

一真:(遮って)なるほど、確かにこのチョコクッキーは美味いな。気に入ったよ。

ユリ:あ、ありがとうござい……ます。

一真:でも、これでチャラにはならないよ。

ユリ:ええ?じゃあ、どうしたらいいんですか……

一真:帰り、送るよ。

ユリ:いい、いいです!どんどん借りが増えるじゃないですか!

一真:送るから。

(社員が戻ってくる)

お、みんな、おかえり。
さて、今日は「ノー残業デー」だ。
さっさとあがって、リフレッシュしてくれよ。

あ、ありがとう。庶務の佐伯くん。
すぐに備品を持ってきてくれて助かったよ。

ユリ:あ、はい。失礼します。

一真:また頼むよ~。

ユリ(M):はぁ、すっかり橘さんペースだわ。
いいオモチャを見つけたって感じなのかしら。まいったなぁ……。

【間】

(始業終業時刻のチャイム)

ユリ(M):5時(17時)……。今日は「ノー残業デー」。
橘さんに見つかる前に帰らなくちゃ。

ユリ:すみません、お先に失礼します。

ユリ(M):正面から出たら見つかっちゃうかも。裏口から出れば……

一真:やぁ、待ってたよ。

ユリ:ぐっ……

一真:駐車場は裏口にある。

ユリ:そう、でした……ハハ。

一真:はい、どうぞ。乗ってください。みんなが出てくる前に。

ユリ:ちょちょちょっ!押さないでください!

一真:はーい、出発進行。

ユリ:橘さんってば!

一真:今日は俺のうちにご招待するよ。

ユリ:橘さんのお宅に?それはまずいですって!

一真:なんで?

ユリ:いや、なんでじゃなくて!

一真:リビングをカフェ風にしてあるんだ。
美味しい料理を作ってあげるよ。
いつも節約・節約なんだろ?外食もままならない。
たまにはいいじゃないか。

ユリ:どうせ貧乏ですよ……

一真:いじけない、いじけない。

【間】
(一真のマンションにつく)

ユリ:すごい!高級マンション!お金持ち!

一真:ぷはっ、なに、そのこどもみたいな反応。

ユリ:すごーい。ひろーい。うわぁ、夜景がきれい!

一真:単純すぎ。
ゲストさんは、このソファーへお座りください。

ユリ:ああ!
これ、世界で一番大きい、人をダメにするソファーですよね!
はじめて本物を見ました!ほんとに、大きい。
なんですか、これ!

いや、ダメダメ!ダメですって!
私、これ以上、ダメ人間になったら……!!

一真:リアクション(笑う)
いいから、ほら。

(抱き上げてソファに乗せる)

ユリ:わっ

一真:君もダメになればいい。

ユリ:へ……

(ユリにキスをする一真)

ユリ:ん!

一真:(耳元でささやく)ユリ、俺を愛してくれ。

ユリ:……へ、は……、た、たちばなさ……

(ユリを押し倒す一真)

ユリ:ちょっ……!

(耳や首元にキスをする)

ユリ:やっ……

一真:可愛いよ、ユリ。

(服を脱がそうとする)

ユリ:だ、ダメ!

一真:脱がないの?

ユリ:そんなつもりで来たわけじゃないです!

一真:じゃあ、なんでついてきたの?
普通、男の部屋に来たら、どうなるかわかるよね?

ユリ:橘さんが無理やり車に乗せたから……

一真:声を出せばよかったじゃないか。

ユリ:そんなことしたらー

一真:したら?

ユリ:橘さんの立場が悪くなります。

一真:俺がこういう人間だって、みんな知ってるから大丈夫だよ。

ユリ:じゃあ、私が会社に行けなくなりまっ……

(唇をふさぐ一真)

ユリ:ん……!ちょっ!わ、私には夫がいます!

一真:(被せる)いないだろう?!
もうこの世にはいないんだ!

ユリ:いるわ!私の心の中に!

(もがくが、一真の力には勝てない)

離して!こんなことして、あなたは満たされるの?
こんな自分勝手な……!
これじゃ、本当の愛なんか見つからなっ…

(一真、愛撫を続ける)

んん……っ

一真:いつまで引きずるつもりだ?
前の旦那のことなんて、俺が追い出してやる。
こんな指輪、はやく外しちまえよ!
自分を卑下して、いつまで下を向いて生きていくつもりなんだ?

まだ君は若い。
女であることを忘れるな。
忘れているなら、俺が思いださせてやる。

ユリ:っ!あなたには、わからないわよ!
私たちがどれだけ深く愛し合っていたかなんて!
簡単に忘れられるわけない!
彼の子どもが欲しくて欲しくて……
でも、私の身体に命は宿らなかった!
なのに、事故で私だけが生き残った!!
どんなにつらい思いをしてきたかなんて、あなたにはわからないわよ!!

一真:ああ、わからないね!
俺は愛されたことのない人間だ!
愛について説明されてもまったくわからない!!
だから……!!

ユリ:橘さん……

一真:いままでの女は、みんな俺の中身を見ようとしない奴らばかりだった。
上っ面だけで近寄ってくる女ばかりだった。
他に男もいて、あいつらにとっても、俺は複数の男のひとりに過ぎなかった。
だから、俺もそうした。あいつらの中に踏み込まないように……

ユリ:そんな……

一真:……軽蔑するか?

ユリ:それは……

一真:君は違うと思ったんだ。

ユリ:橘さん……、泣いているの……?

一真:違う……

ユリ:……

(そっと、一真の頬に触る)

一真:ユリ……

(ユリの手に、自分の手を重ねる)

ユリ:……かわいそうな、人……

一真:……君の手、甘い香りがする。
ひと雫でいい。お前の愛を、俺にわけてくれ。

ユリ:……。
私の身体には、事故の時の手術跡があるの。
消えない傷もある。
手だって、主婦の手だし、若い時のような美しい肌じゃない。
きっとガッカリする。

一真:そんなことは気にしない。君が欲しい。
名前で呼んでくれ……

ユリ:……。かず……ま、さん。

一真:ユリ……

(キスをする一真)

ユリ:んんっ……

一真:ここ、傷跡……

ユリ:あ……

一真:綺麗だよ。かたくならなくていい。体の力を抜いて身を任せて。
ずっとひとりで、頑張ったんだな。

(優しくユリの身体を愛撫していく一真)

ユリ:私も……、う……
誰かの胸で泣きたかった……
抱きしめてほしかった……
もう一度、愛してもらいたかった………

一真:君の身体は甘いな。チョコレートみたいだ。
俺といいペアリングだと思わないか?

ユリ:……あなたが珈琲豆でー

一真:君はカカオだ。
ああ、こんなところにも傷跡がある……。痛かったろ?

(愛撫)

ユリ:そ、そこは!ダメ……!

一真:ほら、君の雫が流れてくる。

ユリ:っ!!

一真:ユリ、愛してるよ。

ユリ:ん……!!

【長めの間】

(出勤日)

ユリ:おはようございます!

(金子「おはよう。あれ、なんか雰囲気変わったね。いいことでもあった?」)

ユリ:何かいいことですか?んー、そうですね……。
あ、私、覚醒したんです。

(金子「覚醒?」)

はい、覚醒です。これからガンガン頑張りますよ!
お任せください!

(企画部)

一真:おい、新しいアイディアが浮かんだぞ。
いままでとはまったく違う。
これなら、絶対一発でクライアントを頷かせることができる。
よし、やるか!

【間】

ユリ(M):自分に自信を持とう。そう思えた。

一真(M):仕事が楽しく思えてきたのは、いつぶりだろう。

ユリ(M):辛くても、また芽はでるんだ。

一真(M):俺らしく。俺の味をだせばいい。そしてー

ユリ(M):喜んでくれる顔をみるのが―

一真(M):一番うれしいんだ。


ー終ー