さざ波【朗読】

 「海が見たい」

「高い空が見たい」

「君とあの景色を見たい」

「カンナが咲くあの駅で」

穏やかな波のような声で あの人はそう言った

無人の駅から見える太平洋

天色(あまいろ)の高い空

どこまでも続く水平線

あの景色を見せてあげたい

そう言ってくれた


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あたしが先に生まれて

あなたは後から生まれて

生きてきた時間は違うのに

見てきたものも違うのに

少しずつ近くなっていく


「迷惑をかけるから」

そうつぶやくあたし

「みんな迷惑をかけて生きているんだよ」

かたく握りしめたあたしの手を あなたはやさしく包み込む


あたしのかたく結んでいた口もとが 少しずつ柔らかくなっていき

誰も近づけまいと閉じていた心が 少しずつ開いていく


あたたかい……

とまどいながらも、あなたのことを想う時間が増えていく


笑いあった日々

抱きしめてくれた 大きな背中

あたしの中で あなたが大きくなっていく


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だけど……

この気持ちをとめなければ 



さざ波が押し寄せる



あたしが動けなくなると 人は去っていく

その背中をみつめるしかできない日々

繰り返さない

あたしはひとりで生きていける

そう決めていた


********


あの人が言った

「高い空が見たい」

あたしが言う

「それは……、"可能性は無限大"ということ」

あの人が口を閉ざす

時折みせる寂しげな目


あの人は遠くを見ていた

空を見ているのか

海を見ているのか


あの人が言った

「さざ波だ」

さざ波?

「夢がある」

夢?

「君のおかげで気持ちが決まった」

「ありがとう」



あたしはこたえることができなかった

手が離れていく

それを引きとめることができない



さざ波が立つ



********


最後にふたりでみた映画

それぞれ別の道を歩き出す主人公たち

聞こえるのは海の音だけ

ふりかえりもせず

二人の距離がはなれていく



カラダが、ココロが引きさかれる


********


言えなかった二文字(ふたもじ)

言えなかったのは その重みをしっているから


言わなかったのは 高い空に向かっていってほしかったから


あたしはまた 去っていく背中をみつめるだけ


********


「海が見たい」

無人の駅から見える あの海を

「あなたと海を見たかった」

いくらつぶやいても 届かない


********


あたしはひとり 駅に降り立つ

見晴らしのいい あの駅に

崖の上に佇むパステルカラーの木造駅舎

目前にひろがる 水平線が分けた海と空の青

高い空……

天色(あまいろ)のもと

赤いカンナが咲いている


海風にあたる

砂浜を歩く

ゆったりとした時間が流れる

さざ波が あたしの心を揺さぶる

かたくなったあたしの心を ひどく揺さぶる

両足をかかえ すわりこむ

波の音にまぎれるように

想いを海に投げだしていく



茜色が冥色(めいしょく)へ

うつりかわる空の色

人影がきえていく

星がまたたく至極色(しごくいろ)

虫の声

波の音

それは まるで子守唄


……帰ろう

たちあがり 砂をはらい 歩き出す


********


砂浜が 息をする

砂浜が 音をだす

砂浜が ひきとめる

星がまたたきをとめる

海がしずまりかえる

時(とき)がとまる

聞こえる懐かしい声

穏やかな波のような声


「やっと一緒に 見られたね」


あたしはゆっくり ふりかえり

あなたに向かって 手をのばす



星がまたたきはじめ

ぺガススの大四辺形(だいしへんけい)が浮かびあがる

ためらいがちな十六夜月(いざよいづき)が やさしくほほえむ

孤月(こげつ)が 皓月(こうげつ)へと変わり

ふたつの影が そっと重なる


さざ波の音(ね)が 遠くなるまで



Fin.

※海とカンナの花が見られる無人駅として、神奈川県小田原市にあるJR東海道本線「根府川駅(ねぶがわえき)」があげられます。相模湾を背景に崖の上に佇む海の見える駅です。春には桜、夏にはカンナの花、冬には日の出など、一年を通して絶景を堪能できます。
https://seaside-station.com/station/nebukawa/


茨木のり子「根府川の海」
https://mahoblog.com/ibaragi-noriko3/