【登場人物】[2:1]
・和泉 奏人(いずみ かなと):28歳。妻のえりと自宅でピアノ教室をしながら、毎年コンクールに挑戦し、プロのピアニストを目指している。
・和泉 えり/奏音:28歳。奏人の妻。奏人とは、高校生の時にマスタークラスで一緒になり、苦楽を共にした同門。いまは、ピアニストになる夢を追いかける奏人を支える。身ごもっている。奏人の母(ひと言のみ)と、この話の5年後、娘の奏音(かのん・5歳)兼ね役。
・横山 信幸(よこやま のぶゆき):40代。奏人のピアノの師匠。演奏活動を行う傍ら、後進の指導にあたる。コンクール司会者兼ね役。
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プロのピアニストを目指しコンクールに何度も挑戦する奏人(かなと)。幼い頃、厳しい父親にレッスンを受けてきた。妻・えりの支えがあり、励んできたが、10歳年下の、神童・天才と呼ばれる佐野との格の違いを思い知らされる。
佐野 響(さの ひびき)/名前はでてきますが、セリフはありません。18歳。神童と呼ばれ、奏人と同門。
※約40~50分
※キャラクターや世界観を損なうアドリブ不可
※過度にストーリーを無視した台詞変更不可
※語尾などの軽微な台詞変更可
■『エリーゼのために』について
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1810年4月27日に作曲したピアノ曲。
本来「テレーゼ(Therese)のために」という曲名だったが、悪筆で解読不可能など何らかの原因で「エリーゼ(Elise)」となったという説が有力視されている。本曲の原稿はテレーゼ・マルファッティの書類から発見されたものであり、テレーゼはかつてベートーヴェンが愛した女性であった。この説ではテレーゼ・マルファッティがエリーゼの正体ということになる。
■ベートーヴェンについて
ドイツの作曲家、ピアニスト。音楽史上極めて重要な作曲家の一人。後世の音楽家たちに多大な影響を与えた。
20代後半頃より難聴が徐々に悪化。28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたためて自殺も考えた。しかし、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。
「ピアノ協奏曲第4番」までは、ベートーヴェン自らが初演独奏を務めたが、難聴が重症化。「ピアノ協奏曲第5番」の初演を他のピアニストに委ねることになる。
40歳頃には全聾となる。そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番(第九/歓喜の歌・喜びの歌)などの大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の辿り着いた境地の未曾有の高さを示すものであった。
1802年:ハイリゲンシュタットの遺書
1808年:交響曲第5番『運命』
1808年:交響曲第6番『田園』
1808年:合唱幻想曲
1809年:ピアノ協奏曲第5番(皇帝)※
1810年:エリーゼのために
※奏人が本番で弾く曲。この「皇帝」という名称はベートーヴェン自身が付けたものではなく、出版社が付けたもの。
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ーコンクール会場の表彰式
司会者:「それでは、第99回テレーゼ・ピアノコンクールの表彰式を始めます」
奏人(M):このコンクールに参加して10年。予選落ちが続き、あきらめそうになった年も何度か。
今年、ようやく本選までたどり着いた。本当に長い道のりだった。
コンクールの参加資格は、17歳以上29歳以下。タイトなスケジュールで、予選は短期間のうちに進む。第1予選、第2予選、第3予選、それを通過してようやく本選に進める。
僕は、年齢的に参加資格はギリギリだ。もう気力も体力もすべて使いきった。あとは、祈る思いで発表を待つだけ。
えり:奏人(かなと)、大丈夫?
奏人:あ、ああ……
奏人(M):えりは、高校生の時にマスタークラスで一緒になり、苦楽を共にした同門。いつも横山先生に叱られて落ち込む僕を優しく励ましてくれた。いまでは公私共に、なくてはならない大事な存在だ。
司会者:「第99回テレーゼ・ピアノコンクールの入選者を発表します。中野秀樹さん、菊池ひろ子さん、和泉奏人さん」
奏人:あ……
えり:奏人……
奏人(M):会場からの拍手が聞こえる。
続けて、3位、2位と発表があり、1位に選ばれたのは、同門で18歳の佐野 響(ひびき)
奏人:……帰ろう。
ー歓声と拍手で、盛り上がっている会場を出る。
えり:奏人……、入選おめでとう。
奏人:……うん。
奏人(M):本選に進めただけでも、本当は喜んでいいことだ。それはわかっている。
奏人:僕が18歳だったら……
えり:あ、奏人、佐野くんが呼んでる。
奏人:……いまはいい。
えり:でも……
奏人:いいんだ!!
えり:っ!
奏人:……ごめん、大きい声を出して。……帰ろう。
奏人(M):えりも、僕の気持ちを察してか、黙って寄り添ってくれている。
奏人:……やっぱり佐野はすごいな。神童と呼ばれていただけある。あいつの弾く音は……
ー抑えきれない感情がこみ上げてくる。
奏人:(声が震えながら)あいつは、あいつはさ、やっぱ天才なんだな。横山先生が可愛がるのもわかるよ。ハハ……。
僕は、……平凡だ。
えり:……わたしは、奏人の奏でるピアノが好きよ。
奏人:でも!1位じゃ……なかった!間違えずには弾けた!どこが悪かった?
なぁ、佐野と僕の何が違う?!えり、教えてくれよ……(えりの肩を強くつかむ)
えり:奏人……
奏人(M):えりは、「痛い」とも怒ることもなく、僕を抱きしめてくれた。僕は、人目もはばからず泣いた。
ー横山のもとへ。ドアをノック。
横山:はい。どうぞ。
奏人:失礼します……
横山:ああ、和泉くん。入りなさい。
奏人:コンクールの結果ですが……
横山:うん、入選おめでとう。
奏人:ありがとうございます。
横山:なんだ、落選したような顔をして。もっと胸をはりなさい。
奏人:佐野が…、佐野 響くんが1位でしたね。初挑戦でいきなり1位だなんて、本当にすごいです。
横山:そうだね。
奏人:先生もうれしいでしょう。
横山:それはうれしいとも。本番前に佐野くんと話したが「ただただ、楽しみです」と。
たいしたもんだ。
ああ、そういえば、佐野くんが和泉くんと会場で話せなかったと残念がっていたよ。
連絡先は交換していないのかい?
奏人:いえ、そんなことはないですけど……。多分あいつに気を遣われたんでしょうね。
横山:そうか。会ったら伝えてほしいとメモを預かっているよ。ほら。
ーメモを渡そうとするが、受け取る気配のない奏人
奏人:……
横山:……私が読んでいいかい?
奏人:(無言でうなづく)
横山:「和泉先輩に憧れて、いつも先輩の背中を追いかけていました。今回同じステージで弾けたこと、すごくうれしかったです。これからもー」
奏人:(さえぎって)追いかけてた?そんなの嘘ですよ!佐野がこのクラスに来た時のこと、よく覚えています。
佐野はまだ12歳だった。飛びぬけてうまかった。先生方や同門の仲間も、一瞬で佐野の演奏に惹きこまれた。
わたしは……、才能の差を見せつけられて、何も言えず退室しました。しばらくピアノが弾けなかった。
……これでまた先生のお名前も世間に知れ渡り、評判もあがりますね。僕だけだったら、先生の面汚しになるところでした。
横山:……和泉くん。佐野くんは素直に君のことを尊敬しているよ。レッスンの時に、よく君の話を聞きたがる。「どうしたら和泉先輩のようなテクニックが身につくか教えてほしい」と。
奏人:……
横山:それに私は、自分の評判など気にしていない。君が入選したことも同じように心から喜んでいるよ。
君は、真摯にピアノと向き合ってきた。取り組む姿勢も非常に真面目で、わたしが指摘したこともレッスン後すぐ練習して、努力していたのも知っている。
奏人:でも!それでも!先生の期待にはこたえられなかった。本当に申し訳ないと思っています。
横山:……
奏人:どんなに努力しても、努力してもっ!届かないっ!
笑っちゃいますよね。僕は28です。これ以上は、いくらやっても、もう上にはいけない。佐野のような天才肌でもない。
わたしはもう……限界なんです。
横山:それで、君はどうするつもりなんだ?
奏人:もう叶わない夢とあきらめて、もっと安定した仕事をして―
横山:本当にそれでいいのかね。
奏人:先生もそう思われるでしょう?
先生は、現役のピアニストとして、各地や世界でも演奏されて、先生のもとに来るのは優秀なピアニストの卵たちで、レッスンを受けたいと願う者もたくさんいる。
私のような芽も出ないものに貴重な時間を割いていただくのは申し訳ないです。
横山:やめるつもりなのか?
奏人:そんな先生に教えていただけたことだけでも光栄なことです。
いつまでもぶらさがっていないで、さっさとあきらめて、佐野のような、未来ある若いやつらにその席を譲ってあげたほうがー
横山:(被せるように)いい加減にしなさい!君は、誰のためにピアノをやってきたんだ!
奏人:っ!
横山:和泉くん、私はね、君が心から納得して、プロのピアニストになる夢をあきらめるなら、君の意思を尊重する。
だが、いま、君はただ逃げようとしているだけだ。違うかい?
今回参加した人たちの中には、本選に行けなかった人の方が断然多い。今年で参加資格からはずれてしまう人だっている。その中で、本選まで進み、入選できたことは誇らしいことなんだよ。
奏人:……わたしも来年で参加資格からはずれてしまいます。
横山:君のピアノの完成度は高い。ミスがない、しっかりしたタッチだ。正確な音の長さ、ゆるぎないテンポ。1音1音が磨かれていて、テクニックは文句なしだ。
私のところに来た時は、そのあたりも未熟だった。演奏もギスギスしていた。ピアノを憎んでいるのかと思うほどだった。
だが、だんだんとテクニックも安定してきて穏やかになり、音楽も心から楽しむようになっていった。ここまで来たのは、君の努力の賜物だ。
……いまはどうだ?
奏人:……。
横山:いまの君の奏でる音は、そうだな……、例えるなら「エチュード」だ。
奏人:エチュード…?
横山:もう一度ピアノを心から楽しんでいた時のことを思い出してほしい。
そして、どのような演奏をした人が入賞し、佐野くんがなぜ1位になったか考えてみることだ。
佐野くんは、天才だから1位になったのか?
奏人:わたしはどうしたら……。
横山:(軽く溜息)…和泉くん、君の次の課題はこれにしよう。
ー楽譜を渡す
奏人:これは……。
横山:それと、コンクールで弾いている時の動画を見直してみること。これを練習する時も、動画を撮って見返してごらん。
一週間後にまた来なさい。
奏人:……はい。
ー帰宅
奏人:ただいま……
えり:おかえりなさい。横山先生とお話できた?
奏人:できたよ。もうやめようと思っていると伝えるつもりだった。
でも、つい感情的になって、先生に怒られてしまった。
えり:……
奏人:いまの僕のピアノは「エチュード」だと言われたよ。
次の課題はこれだってさ。
えり:これって……「エリーゼのために」?
奏人:子どもみたいだ、ハハ……。一週間後にまた来るように言われた。
それと、コンクールの時の動画を見直してみなさいってさ。
えり:そう……。でも、私は子どもの時、この曲が弾きたくて弾きたくて、たくさん練習したわ。
聞いている分には簡単そうに思えたけど、実際練習したら、たくさんの演奏テクニックが盛り込まれていてとっても苦労した。
その分、弾けるようになった時は、本当にうれしかった。楽しくて楽しくて、誰かに聞いてもらいたくて、何回も何回も弾いたわ。
……奏人は、これを渡されてどう思ったの?
奏人:僕は……
えり:馬鹿にされたと思った?
奏人:……
えり:……。私、久しぶりに弾いてみようかしら。
奏人(M):そういうと、えりはピアノの前に座り、「エリーゼのために」を弾きはじめた。
その途端、いろんなことが思い出された。
父からの猛特訓。エチュード、エチュード、エチュード。
少しでもミスしようものなら、激しく罵しられ、容赦なく叩かれた。
自分が叶わなかった夢を僕に押し付けて、自分の生活のために、僕を一流ピアニストにしようと束縛する。
「みんなと遊びたい」
「逃げたい。消えたい」
「ピアノなんか壊れてしまえばいいのに」
そう思いながらも逃げられず、毎日何時間もピアノの前に座らされては、怒られる。
でも、優しい母は、僕が一曲弾けるようになると、喜んで抱きしめてくれた。弾けたことよりも、「音に心がこもっていてすばらしかった、嬉しかった」と。
母に喜んでもらいたくて、またピアノの前に座る。
でも、その母が病(やまい)で亡くなると、父はますます粗暴になり、生活も乱れ、酒に溺れるようになる。
いつまでも悲しんではいれられない。でも、父とピアノからは逃れられない。
「そうだ、もっとうまくなれば、父親から離れることができる」その一心だった。
そして、念願がかない、横山先生のもとへ。
その父も、日頃の不摂生な生活がたたり合併症が発症し入院。それが進行し、帰らぬ人となった。その時の僕は、家族を亡くした悲しみや孤独感よりも、解放感のほうが強かった。
僕は……、薄情だ。
えり:(奏人の母)「あなたを、誇りに思っているわ」
奏人:え?
えり:奏人?大丈夫?
奏人:え、あ……。いま……
えり:泣いてるの……?
奏人(M):気づくと、涙が頬を伝っていた。
奏人:いや、ごめん。大丈夫。
えり:……いいのよ、泣いても。
ーえり、優しく奏人を抱きしめる。
奏人:くっ……(声を抑えながら泣く)僕は、何のために、ピアノを……
えり:ねぇ、ベートーヴェンは、この曲を自分のために書いたんだと思う?
愛する人のために書いて、その人に「喜んでもらいたい」という一心で演奏したんじゃないかしら。
奏人:……
えり:試験でも、コンクールのためでもなく、自分との戦いでもない。純粋に、彼女に喜んでもらいたくて……
ねぇ、わたしにプロポーズしてくれた時のこと覚えてる?
奏人:ああ、もちろん。
えり:わたしのために、ピアノを弾いてくれたよね。なんの曲だったか覚えてる?
奏人:忘れるわけがない。グリーグの「君を愛す」
えり:「私は君を愛す、これまでも、 そして、これからもずっと」という歌詞。
あの時のこと、忘れられないわ。あまりの感動に何もできなくて、立ち上がれなくて、ただ、ただ涙が溢れ出して、どう言葉にしていいかわからなかった。
一生忘れない。あなたと共に歩いていきたい。心からそう思ったし、いまもそう思ってる。
ねぇ、あなたは、人の心を動かす演奏ができるのよ?
奏人:あの時は、君のために弾いたんだ……
えり:ありがとう。本当にうれしかった。そういう演奏は、人の心にずっと残ると思うの。
愛する人のために作られた曲は、いまもずっと演奏され、人々に愛され続けているわ。そのシンプルなメッセージに、人は、心打たれるの。
奏人:いまの僕に足りないのは……、佐野との違いは……なんだ?
えり:私が偉そうなこと言える立場にはないけど……。以前、佐野くんと話したときに、彼はこんなこと言っていたわ。
「他のことをしている時間があれば、ピアノを一日中弾いていたい。自分の気持ちをそのまま音楽で表現できるし、ピアノ自体が僕そのものじゃないかと思っている」って。
奏人:ピアノが自分そのもの?
えり:お客様に「君の演奏を聞いたらこの曲がすごくいい曲にみえてきた」「この曲、そんなに好きじゃなかったんだけど、佐野くんの演奏を聞いて好きになったよ」と言われて、すごくうれしくて、ピアノ演奏のやりがいを感じたって。
奏人:……やっぱり、あいつは天才だな。
えり:佐野くんは、相当な努力家よ。それがあってこそ、より才能が磨かれると思うの。
天才と呼ばれている人ほど、人一倍努力しているわ。でもそれが苦じゃないのよ。
奏人:……。
えり:ねぇ、私への気持ちが変わっていないのなら、私とお腹にいる私たちの子どものために、いま、弾いてみてくれない?
奏人:「エリーゼのために」を?
えり:ええ。
奏人:……
えり(M):しばらく考えていた奏人がピアノの前に座る。鍵盤に手を置くまでに、何分かかっただろう。それでも、私は黙って彼が弾いてくれるのを信じて待った。
奏人が目をつぶる。鍵盤に手を置く。深呼吸。そして、奏人が「エリーゼのために」を奏ではじめた……
奏人(M):時間が巻き戻ったようだった。えりとの出会い、彼女の支え、共に笑い、泣いた日々。辛い時も、励ましあい、ここまで歩んできた。えりとの時間は本当に幸福で……
ー弾き終える
【間】
えり:奏人……。お腹の子が……動いたわ。この子、喜んでる!私にはわかるの。
奏人:え……
えり:奏人!(奏人に抱きつく)ずっと言わなかったけど、コンクールまでの間、あなたがピアノを弾いている時は、この子は反応しなかった。いま、すごく喜んでいるの。触ってみて。
ーえりのお腹に触る。お腹の子が奏人の手を蹴る。
奏人:……ハハハ。蹴られたよ。いま、この子に蹴られたよ……
えり:うん…、うん!
奏人:しっかりしろ!って言われてるのかな……(涙ぐむ)
えり:ねぇ、いまどんな気持ち?
奏人:うれしい…。もっと弾きたい…。この子のために、君のために。
えり:私も、こんなに心打たれる「エリーゼのために」を聞いたのは、はじめてよ……
奏人:僕は……、まだピアノを弾いてもいいのかな。
えり:あたりまえじゃない。あなたは聞いている人を感動させることができるのよ。
奏人:えり……、ありがとう……。
ー(二人、泣き笑い)
(一週間後、横山のレッスン室にて)
ー奏人、「エリーゼのために」を弾き終える
奏人:……
横山:(しばらく黙っているが、ゆっくり拍手をする)
奏人:先生……?
横山:自分で課題を出しておきながら、あらためて「エリーゼのために」がこんなに美しい曲だったとは……、正直驚いたよ。
和泉くん、素晴らしい演奏をありがとう。
奏人:そんなっ!
……正直、この曲が課題だと言われた時は困惑しました。わたしのことを試しているのかって、「あきらめなさい」と言っているのかと。本当に、恥ずかしいです。
でも、先生の言葉や妻の助け、自分の敬愛するベートーヴェンと向き合い、あらためて演奏することの喜びを思い出すことができました。
横山:和泉くん。君の技術は素晴らしい。それは間違いない。
だが、なぜ佐野くんが1位だったのか、少しはわかったかな。
奏人:わたしは……、年齢的なこともあり、気持ちが焦っていました。
自分の境遇のせいにし、佐野を妬んでいました。あいつにだけは負けたくないと。
人に伝えることを後回しにして、とにかくミスのないよう完璧に弾くことや、曲の完成度ばかりに気を取られていました。
作曲家が伝えようとしていること、その音楽に真摯に向き合うことができていませんでした。
奏人:でも、佐野のピアノは、多少のミスタッチはあったもののそれを上回る「表現力の高さ」があり、聴いている人の心に届く演奏でした。
横山:君は知らないようだけど、佐野くんは、お父さんにピアニストになることを反対されていた。
でも彼は、お父さんに「自分の人生だから自分で決めさせてほしい。自分の心が欲しているんだ」と何度も懇願したそうだ。
それでもしばらくは、練習室の鍵を取り上げられたり、楽譜を隠されたりしていたそうだよ。お父さんが家にいる時は練習できず、音楽教室の練習室を借りていたそうだ。
家に入れてもらえないこともあったとか。見かねて、お母さんが一緒に謝ってくれて、家に入れてくれたらしい。
それでもピアノをやめようとしない彼の熱意に根負けして、それ以後、目立った反対はなくなったそうだ。
いま、彼のお父さんは、佐野くんがピアニストになることを黙認しているとのことだ。
奏人:佐野はそんなに反対されていたんですか。全然知らなかった……
横山:佐野くんは思いを伝えることを大切にしている。
「音楽は人の心を癒したり、人の心を穏やかにしたりすることができる。燃え上がらせることもできる。もし僕の演奏を聞いて、何人かでもそういう気持ちになってくれたらうれしい」とね。
……和泉くんは、「音楽の力」を信じているかい。
奏人:信じている……つもりでいました。でも……
横山:君は、弾き終わった後「ミスがなかった」と自分だけで満足していた…違うかい?
奏人:……そうです。
横山:賞を取ることだけが目的になり、練習でも技術面ばかり意識していた。
そして、「~ねばならない」が口癖になっていたね?
奏人:……はい。
横山:動画は見直してみたかい?
奏人:はい。あんなに硬い表情で弾いていたんだと気づきました。なんて苦しそうに弾いているんだと……
横山:それを見ているお客さんはどう思う?
奏人:……辛そうな様子ばかりが気になって、音楽が入ってこなかったでしょうね。
横山:音楽は「表現手段」だ。ミスなく弾けることは大切なことだが、絶対条件ではない。
「弾きたい。この曲を通して何かを表現したい、伝えたい」という気持ちが大切だということを思い出してくれたかな。
例えば、美しい風景に感動して、それを誰かに伝えたいと思ったら、どうする?
奏人:……そこがどんな場所だったか。時間帯はどのくらいで、どんな色合いで、どんな空気だったか。自分が何に感動したのかを話します。
横山:そうだね。それを一生懸命、伝えようとするだろう?こんなに感動したんだ、と。
奏人:はい……。他の人とのつながりの中で何かを表現しようとするときに、はじめて生きた音楽になる。わたしは、それを忘れていました。
横山:もちろん、コンクールがすべてではない。
君が納得した上で、若手演奏家を支援する側になるというのも一つの選択肢だと思うよ。
来年のコンクールが君にとっては最後になるが、コンクールに出ることで、和泉くんがダメになるようなら、わたしは、エントリーしなくてもいいと思っている。
ーかなり間をおいて
奏人:……先生。この前、お腹の子が動いたんです。
横山:え?
奏人:妻が言っていました。コンクールまでは、わたしのピアノを聞いても反応がなかったそうです。
先生からいただいた課題。妻とも話し合ってみて、あらためて、誰のために演奏しているのか、どうしたいのか考えなおしました。
そして、妻の前で「エリーゼのために」を弾いてみたんです。そしたら、お腹の子が喜んでいたって。
横山:……
奏人:来月末には産まれてくる予定です。自分の子とようやく会えるんです。
わたしは……、生まれてきた子に、自分の父親は「逃げなかった」と、ピアノで伝えたい。
たとえ、一位になれなくてもです。
横山:そうか……
奏人:コンクールにエントリーしようと思います。
横山:和泉くんが心からそう思っているのなら、わたしも応援する。
奏人:はい、ありがとうございます。
横山:また厳しい一年になるぞ?
奏人:わかっています。逃げません。
横山:久しぶりだな。君のそのまっすぐな瞳を見るのは(少し笑う)。
よし、一緒にやろうじゃないか。
奏人:はい。よろしくお願いいたします。
ー奏人と横山、固い握手を交わす。
ー次の月、出産日がはやまり、連絡が来て、病院へ急ぐ奏人。
奏人:はぁ、はぁっ……!予定日よりはやくなるなんて……
すみません!和泉 えりの夫です。妻はっ!
ー出産を終えて、疲れ切っているえりのそばへ
えり:あ…、かな…と……
奏人:えり!無事か!ごめん、間に合わなくて。ほんとにごめん!
えり:大丈夫よ…。見て、あなたの子よ……
奏人:あ、ああ…、この子が……
えり:奏音(かのん)、あなたのパパよ。
奏人:…えり、えり、ありがとう!ほんとに…ありがとう!
えり:ふふ…、泣き虫ね。
奏人:奏音、君の産まれてくる日に間に合わないなんて、ダメな父親だな。ごめんな。
ーそっと、奏音の小さな手に触れる奏人。
奏人:あ……
えり:あなたの指を握ってるわ。
奏音、これがママの自慢のピアニストの指よ。どう?
奏人、わたしの方こそ、ありがとう。こんな宝物をわたしに授けてくれて。
奏人:僕は、僕はどうやって、えりと奏音に……
えり:弾いて。
奏人:え?
えり:ピアノを弾き続けて。私たちのために。ずっと。
奏人:えりと奏音のために……
えり:そう、あなたの音色で、わたしたちを優しく包んで。
奏人:……わかった。えり、ありがとう……
奏人(M):涙が溢れてとまらない。この抑えられない気持ちをどう表現したらいい?
僕ができることは……、ピアノだ。ピアノで伝えるんだ。
横山先生とのレッスンは厳しいものだったが、これまでとは違い、心地よい疲労感と、ピアノが弾(ひ)ける喜びが、幸せが、こみ上げてくる。
ー自宅にて
奏人:どうした?奏音。ぐずってるな。眠いのか?
えり:そうね。よしよし、奏音。お昼寝しようねぇ。
奏人:今日はなかなか素直に寝てくれないな。
えり:ねぇ、ピアノを弾いてくれない?奏人がピアノを弾くと、奏音が泣きやむの。
奏人:ああ、もちろん。さて、今日はどの曲がお好みかな、奏音さん?
えり:ふふ。奏音さんのリクエストはなんだろうね。子守歌かな?
奏人:ショパンかな?それとも、ブラームス?どれ……
ー弾くが、泣きやまない。
えり:違うみたいね。やっぱり、あの曲かしら?
奏人:じゃあ、奏音。奏音のために弾くよ。お二人様、どうぞ、そちらにお座りください。
えり:ふふ。奏音、特等席ね。
ー奏人、「エリーゼのために」を弾く
【間】
ー弾き終える
奏人:さぁ、どう……?(振り返る)
えり:……(奏音と寝ている)
奏人:なんだ。奏音が寝たと思ったら、えりまで寝たのか(少し笑う)
えりも、疲れてるもんな。
(小声で)いつもありがとう。えり、奏音。少しお休み。
ー(二人を横にならせ、自宅内の練習室に入る)
ー横山へ電話をする奏人
奏人:もしもし。横山先生、和泉です。
はい。そうですね。いよいよコンクール予選です。頑張ります。
はい、わかってます。先生のおかげで、ここまでこられました。感謝しています。
例え本選にたどり着かなくても、わたしは満足です。
ああ、いえ、もちろん、あきらめているわけではありません(笑う)。
はい。それでは、よろしくお願いいたします。
ーコンクール会場。順当に予選通過をしていく奏人。本選へ。
ー練習室にて最終調整。
奏人:ふぅ…。これ以上やると、本番で疲れてしまうな。
ー奏人のスマホに佐野からメッセージが届く
奏人:ん?……佐野……
奏人(M):「和泉先輩の本選、楽しみにしています。先輩の弾くベートーヴェンは、まるでベートーヴェンが乗り移ったみたいなんです。ベートーヴェンが僕に振り向いてくれるには、まだまだ時間がかかりそうです。本当に応援しています。落ち着いたら、一緒に食事でもしませんか?先輩からいろんな話、技術を盗みたいです!」
奏人:ハハ…。俺は本当にバカだな。周りのことがまったく見えてなかった。みんな俺のことを応援してくれてたんだ。
ー少し考えて、佐野にメッセージを返す。
奏人:「佐野、ありがとう。今度ゆっくり話そう。ピアノバカのお前の話も聞きたいからな。だけど、今日は、俺のピアノを聞いてろよ」
ーノック。横山が練習室に入ってくる。
横山:和泉くん、いいかい?
奏人:先生。もちろんです。
横山:本当によく頑張った。いよいよ本選だ。
奏人:はい。悔いのないように弾きたいと思います。
横山:ここまで来たら、わたしが言うことは何もない。言うとしたらひとつだけ。
楽しんできなさい。
奏人:はい!
奏人(M):本選で選んだ曲は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番。通称「皇帝」。この曲が書かれたのは、ナポレオンがウィーンに向って進撃した時代。ウィーンの街は荒れ、逃げ出す人々も多くいる中で、ベートーヴェンはウィーンにとどまる。
ベートーヴェンの支援者たちも逃げ出したため、ベートーヴェンは経済的にも厳しい状況に陥る。
困難、絶望の淵から、芸術への熱意で再び力を得たベートーヴェン。
ピアニストになることをあきらめかけた僕に、再び力をくれたベートーヴェン。
この一年、貴方と向き合い、感じたこと……。それを全身全霊をこめて表現し、自分のすべてを出し切る。
そして、何より僕自身が、音楽を楽しむ。
(深呼吸)いける。いよいよ、出番だ。
ステージマネージャーから合図を受け、指揮者と共に、ステージへ。ライトが眩しい。大観衆とオーケストラ、指揮者の視線が自分に注がれる。一礼し、ピアノの前に座る。目を閉じる。息を整える。
鍵盤に手をおく。指揮者とアイコンタクトをとる。指揮者が腕をあげ、振る。オーケストラの壮大な和音がはじまる。
横山(M):ベートーヴェンは20代後半頃から難聴が悪化し始め、30才前半で自殺を考える。
彼が書き残した「遺書」の一節。「自分の生命を絶つまでほんの少しの所であった。私を引き留めたのはただ芸術だけであった」
しかし、難聴の悪化により、自分で演奏することが叶わなかったこの協奏曲。ベートーヴェンならどう弾いただろうか。
奏人(M):風格のある、エネルギッシュな第一楽章。
横山(M):オーケストラの壮大な和音を受けて、ピアノが華麗なパッセージを弾き始める。
いきなりの見せ所だ。
ファンファーレ風の動機に続いてピアノが音階を上っていく。
静かな雰囲気で始まり、装飾的な音を交えながら、オーケストラとの掛け合い。
オケと息が合うかどうか。
軍楽隊的な雰囲気も、当時の空気を伝えるようだ。
時にロマンティックに、時に豪快に。
最後は、華やかなピアノの音色と力強いオーケストラで堂々と結ばれる。
奏人(M):優しく美しく、素朴で味わい深い第二楽章。
横山(M):シンプルな主題を自由に変奏していく穏やかな楽章。
祈りの雰囲気や、幻想的なムードもある。
ピアノが絶妙の動きを加えて変奏していく。
最後には、第三楽章の主題をピアノで暗示する。
奏人(M):そして、豪快で力感(りきかん)に溢れた華やかな第三楽章。
横山(M):第二楽章の最後に暗示された主題を、躍動感あふれるピアノで表現する。
左手は3拍が2つ、右手は2拍が3つという独特のもので、不思議なぎこちなさが惹きつける。
技巧的なパッセージ。軽やかな副主題。新しい主題も出てきて華やかに頂点へ。
ピアノの華麗な音の動きが聞かせどころ。
最後にピアノとティンパニだけが残り、段々消え入るようになり、終わるのかと思いきや、息を吹き返したように力が戻り、ピアノが見せ場を作る。
そして、曲は雄大に結ばれる。
ー弾き終える
【間】
奏人(M):演奏後、大ホールが静寂に包まれ、時間がとまったように感じた。
その静寂を引き裂くかのように、大歓声と万雷(ばんらい)の拍手。
僕は、何が起こっているのかわからず、椅子から立ち上がることができなかった。満足そうに微笑む指揮者に促されて、ようやく立ち上がり、一礼する。鳴り止まない拍手。
思わず、舞台袖にいる横山先生を見る。
先生が……、泣いている……。
こみ上げる気持ちを抑え、笑顔で聴衆にこたえる。
もう、どんな結果になっても構わない。
えり、奏音、聞いててくれたかい?
ー自宅にて。ライブ配信で本選を見守っていたえり
えり:(泣いている)奏人、奏人……。すごい、これがベートーヴェンなのね。
奏音、これがあなたのパパよ。そして、私の最愛の人……。
ー本選に出場したピアニストが固唾をのんで表彰式を見守る。
ー表彰式がはじまる。入賞者から発表されていく。
奏人(M):まだ名前が呼ばれていない……
司会者:「記念すべき第100回テレーゼ・ピアノコンクール。第1位は―。和泉 奏人さんです。おめでとうございます。どうぞ舞台にお越しください!」
ー割れんばかりの歓声と拍手。スタンディングオベーション。
奏人(M):僕は、ピアノを…、音楽を…、心から愛している。
【間】
ー横山と対面
横山:和泉くん、おめでとう。「聴衆賞」や他の特賞も受賞するなんて……
君の演奏は本当に素晴らしかった。見事なベートーヴェンだった。
あらためて、君と共にレッスンしてきた日々を誇りに思うよ。
奏人:そんな、先生……。わたしは……、わたしは……
横山:何も言わなくていい。
さぁ、和泉くん、これから忙しくなるぞ。
奏人:はい!
奏人(M):その数か月後、最高位入賞者による、ガラ・コンサートがあり、その様子はテレビでも放送され反響を呼んだ。そして、各地で演奏会を行う日々が続く。
ー5年後
奏音:パパー!
奏人:奏音、どうした?
奏音:かのん、これ弾きたい!
奏人:どれどれ?……これ……
奏音:かのん、この曲、だーいすき!
奏人:そうか……。うん。
奏音:ママにプレゼントするの!
奏人:ママに?
奏音:だって、この曲、ママの名前なんだもん。
奏人:……ハハ、そうだな。
奏音:うん!
奏人:だけど、この曲はちょっと難しいぞ?
奏音:かのん、弾けない…?
奏人:そうだなぁ。練習すれば弾けるようになるけど…。いつプレゼントしたいのかな?
奏音:ママの誕生日!あと、ママが、パパとママの大事な日って言ってた。
えっと、えっと「けっこん……きねんび」?
奏人:……そうか。ありがとう、奏音。
でも、来月だからなぁ、間に合うかどうか……
奏音:できない……?(泣きそうになる)
奏人:奏音は泣き虫だな。誰に似たんだか…(苦笑い)
(奏音の頭をなでながら)でも、パパはうれしいよ。
そうだ、今回はパパと二人で弾こうか。そして、ママを驚かせてやろう。
奏音:うん!パパと弾く!練習しよ!はやくはやく!
奏人:ハハハ、わかったよ。
いいかい、奏音。「ママ、大好き」という気持ちを込めて弾くんだよ。それは必ず伝わるから。
奏音:かのん、パパもママもだ~いすき!って弾く!
奏人:ありがとう、奏音……。おいで(抱きしめる)
その気持ちをずっと、ずっと忘れないでほしいな。
奏音:うん、忘れない。
奏人:音楽は人の心を動かすことができるんだよ。
奏音:……パパ、あったかい。
奏人:(涙をこらえて)……うん。
よし、じゃあ、練習室に行こう。
奏音:うん!
【間】
奏人(M):えりのために、奏音のために……
「エリーゼのために」
ー終演